めんども

 熱い次回予告の後に放置!ブログならではですね。実際、面倒くさかった。というのも、twitterおもしれーんだこれが。今更何を言っているのかと思われる向きもございましょうが、いや、やっていなかったんですよ。まあ理由は色々あるんですけども。まず何よりも、twitterで人と繋がりたくなかったんですよ。ミクシイくらいからSNSというものをやっていたんですが、30人くらいマイミク出来て、それ多分超少ないんですけど、それですら嫌になってしまいまして。どうもなんか、軋轢を起こしがちなね。軋轢とまでは言わないか、なんか、うーん。で、twitterは今人間で俺をフォローしてるのは3人ですからね。楽!王様の耳はロバの耳の穴ですよ。超下らないこととか書きまくってて楽しい。ただ文字数少ないですよね、やっぱ。考えたこととか、いいなと思った文章をメモ的に使う場合もあるんですけど、全然足りやしないぜ。といいますか、あれをコミュニケーションの道具として使うってのはどうなんでしょ。

例えば、ミクシイと同期できたりするじゃないですか。それで見たんですけれど、「じゃあ何時どこどこでー」ってあったりするのを見たときにはちょっと意味がわかりませんでしたね。もうアレも3年くらい見てないんですけど、なんだろうね、その集合場所がカフェだったりしてさ、めんどくせえ。自意識の飛沫がこっちにかかるんだよ。わきまえろよって思いましたねー。

エボラって体液とかの飛沫で感染するそうですけれども、そして今パンデミック状態ですけれども、うん、この話はあんま関係ないですね。何故か昔アウトブレイクって映画の小説版を読んだことがありまして、思春期だったせいか、バッチリトラウマになってしまって、今でもエボラ出血熱って聞くと怖いです。実際怖いものなんだろうけど、すげー移る!苦しんで死ぬ!みんな死ぬ!人類滅亡!みたいなイメージあります。しかしこうやって流行してみるとわかるんですけど、自分のような一般人に出来ることってなんにもないですね。祈ることだけです。いや、なんか飛沫つながりで。

んで久保ミツロウと能町ミネコの話か。そんな話をしてたんですよね。大半が愚痴で、前回。もう旬過ぎましたね。とはいえ、一応フォローしたんですよ。Twitterで。どうです。はまっておるでしょう。「こじらせ系」という言葉があるらしいんですが、どうもそのムーヴメントにこの二人が澄ました顔で居座ってるらしい、と。いやどんな顔かは知らんが、その時僕は直観的に「こいつらは敵である」と認識しましたよ。「じゃあお前は誰だ?」っていう質問も最もな話だけど、まあそこは俺さ。単に俺だぜ。なんか頭おかしいですね。で、ですね、石野卓球と揉めた、揉めてもないのか、まあそんくらいの時に、能町ミネコがめっちゃかばったんですよね。これを表す言葉があるはずなんだけど、頭に出てこない。なんだろう?と思いながら友人と話をしていたら、まあその人もなんかこの二人に何かを感じてるようで、どうなんだこうなんだって話したんですけど、最終的には「あの二人はズッ友だね!」というものでした。それだよそれ。しっくりきましたよね。

恐らく、あの方々はサブカルサイドの人間だと思うんですけど、そしてズッ友って言葉の文化圏ってのは少なくともサブカルサイドの言葉ではないと思うんです。個人的にはヤンキー寄りではないかと思うんですけど、そういう言葉でしか言い表せない関係性ってのは興味深かったですね。勝手にしっくり来て、勝手に興味深いというのもなかなかのマッチポンプなんだろうけども。

つまり問題の所在をはっきりさせると、自分の問題意識みたいなのが今、「言葉の弱さ」みたいなところにあるんですよ。もっと具体的に言うと、ある意味ではネット社会ってのは言葉のやり取りがほとんど、という面があると思うんですけど、どうにもその中でポジティブな言葉が力を持たない、ということがあるように思えて仕方ないんですよ。んで、いくつか仮説はあって、まあそのうちこうやってなんとなく書いておこうかなって思っとるわけなんですけど。つまりそれが、もしかしたら日本語の問題かもしれん、というところからの、前回の熱い次回予告の夏目漱石と近代日本語とヘイトスピーチってところだったりするわけです。でも多分今日もそこまでいかないね!仕方ないね!

でも実際、ポジティブな言葉は力を失ってるだろうか?って問題がありますよね。または逆にそういう時代ってあったのだろうか?と言い換えることも出来る問いなんだろうとは思いますが、思いますが!じゃあ次回はこの辺りから考えてみたいなあと。先送りだなあ。でも根が深いというかなんというか。問題をでかくしちゃったし、考えることも増えたからねー。もう本来言葉とは、とか言い出しそうでめんどくさい。でも一応結論が出るまで考えるよ!いつになるかわかんないけど!

 

 

 

それはそうとですね、書いておこうと思ったことを一応書いておこう。

アイドル。ちょうどブログやろうと思った辺りにBisの解散ライブがあったんでいってきました。アレですね、わたくし、アイドルのライブなんかは初めてのうぶなおぼこだったんですが、俺のようなおっさんが踊ってても大丈夫だったよ横アリ。すごいパワーを感じた。Bisはすんごく曲がいいなあと思ってて、一人で酒を飲みながら涙したこともありました。気づいたら解散!ということで、残念すね。多分曲調がメロコアっぽかったり、やたらイエローモンキーのカバーとか歌詞を引用するあたり、丁度我々の世代を狙い打つコンセプトがあったんじゃないですかね。ものの見事に打ち抜かれました。

ただ、それと同じくらいすごいと思ったのは、アイドル界隈に溢れる言葉!豊富ですよね。本当は全然アイドルに興味ないはずなんですけど、それから2週間くらい巻き込まれてました。小林秀雄が、「僕はランボオという事件の中にいた」とか言ってたと思うんですけど、「僕はアイドルという事件の中にいた」ですわ。現代を計る物差しとしてのアイドル、という部分が成立してるように思います。単純に、あまりかわいいわけでもない女の子が、偶像という意味も含めてのアイドルとしてやっていけてるってのは、今までの時代とは、時代というかタームというかパラダイムというかよく意味もしらねえけど、なんか違うんだと思います。こういうのを日本の歴史とか民俗学的に語れたら面白いんでしょうけど、「現代の巫女なのである!」とかね、言いたいんですけど、今はそういうのはやらないんでしょうね。まあなんか思いついたらまた書きます。ただ自己否定をするアイドル、まあそれがBisはそうだったんだろうなあと思うんですが、それが成立するマーケットとはなんぞや?とか、本当に色々な面から語れることは多いだろうし、実際言葉は溢れてんでしょうね。全然気づきもしませんでしたことだよ。

 

本当に考えたいことばかり、判りたいことばかりですよ。いやー複雑な現代社会ですこと。