なんなん

 最近各方面で少しばかし話題になってますよね、久保ミツロウVS石野卓球。VSではないんでしょうけど。この騒動が面白かったので、感想を書きたいと思います。こういうのは何かしらに書いておいたりしないことには忘れてしまいますからね。だからといってtwitterじゃあ文字数足りないし、facebookに書いてもねえ、というところです。そもそも、ああいうSNSで重要なのは「何をやったか」という部分だろうと思うので、「何を考えているか」ってのはあんまり必要とされていない部分じゃあないかと思うのですが、どうでしょう。僕なんかは、自分がしていることにまるっきり自信ないですから、人が何しててもイイネ!!なんて思いませんし、だいたいそういうのを押し売られるのは本当辟易しています。というかああいうのに限って、あんまり仲良くない友達からやたら友達申請が来るのはどういったわけでしょうか。僕くらいの年齢になると、周りに子供がポコポコ生まれ始めて、なんか、本当仲良くもない奴の子供の成長記録みたいなの一日単位で見せられたり、なんか、私の家庭はこんなに幸せなのよってのを見せられたり、なんか、俺は仕事もプライベートも充実しているぞってのを見せられたり、本当にさあ、○○さんは武蔵境のマクドナルドにいます、とかどうでもいいよ!という気持ちでいっぱいです。やたらとなんか、が多い文章で申し訳ないです。でももうお腹いっぱいです。今日のご飯、とかもう感想も出てきません。「じゃあやるな!見るな!」という指摘があるんでしょうけど、いちいちごもっともと思います。ただ、なにかしら、なんでしょう、ああいうのをやっていないと、連絡が取れない消息不明の人間である、と思われるのが少し癪なんですね。例えば、友達付き合い、サークルとかでもいいんですけど、「××って最近どうしてる?」みたいな会話ってあるじゃないですか。で、それが連絡取れない奴の話だったりすると、「ああ、なんかフェードアウトしてったわw」みたいな風になりますよね?なるんです。ならないかな、僕の周りだけですかね。この「w」が本当に許せないですよ。「結局俺らには着いてこれなかったなw」「ノリ合わなかったなw」みたいなの。

 まあ僕なんかが言うのもなんなんですけども、現代日本の姿って、誰もがお互いを馬鹿にしあっているような状況にあると思います。2chなんか見た日には、世の中の全ての人は馬鹿である、と思わざるを得ません。好きでよく見ていますが!あそこで叩かれない人って、よほど馬鹿であるってコンセンサスがあるか、より叩かれる対象がある場合、今回のワールドカップとかで言えば、日本代表を滅茶苦茶に蹂躙したドログバとかになりますか。アレ日本相手にしてなければ、「衰えたなあ」っていわれてるに違いないと思うんですけど、どうでしょうか。まああの時の絶望感は半端じゃなかったですけどね、確かに。日本代表の体つきより倍の厚みがあるコートジボワールの選手の、更に1.5倍くらいの厚みがありましたものね。

 まあー敬意が足りないと思いますよ。リスペクト全然足りないッスよーって奴ですね。どういう奴だ。と、いうのもですね、もしかしたらこう、必要以上に自分のプライベートを晒すことによって、舐められる面があるんじゃないかと思うんですね。「あ、あの人おしゃれぶってるけど今日鳥貴族にいるわ」とか、「あ、あの人旦那さんいけてねえわ」とか、「あ、あの人なんかすげえうさんくせえのにイイネ!!ってやってる。馬鹿だ」みたいな。自分に関する情報を晒すってことは、そういう風に思われるリスクがあるってことだと思うし、いや、でもそういうのはリスクになりえないのかもしれないですね。謎なんですよねー。結構皆、自分のこと好きなように思える。自分のことが好きってのは大変結構な話だと思います。好きこそものの上手なれという言葉もあります。昔ラブラブ愛してる、という番組がありましてですね、キンキキッズとか吉田拓郎とかがMCやっとりまして、当時中学生くらいか、下手したら高校生くらいの僕はたまに見ていたんです。その時のゲストは吉川ひなのでしてね、その時もうIZAMと結婚してたかなあ、ちょっと定かではないんですが、そして前後の文脈も忘れましたが「自分のことを好きになれない人がいったい誰を好きになれるっていうの!」みたいなことを吉川ひなのが言ったら、間髪いれずに吉田拓郎が「その通り!!」って言った場面をなんだかすごく覚えているんです。「?」が頭を駆け巡りまして。そういうものなんですかね。昔付き合っていた彼女にもまったく同じようなことを言われまして、そのときからなんとなく自分の中である種テーマというか、考えなければいけないことかなあ、というのが少しあるんですね。とはいえ、違うだろう!と思っているわけじゃなく、果たしてそうなのかな?くらいのことで、つまり、「自分を好きでなきゃダメかなあ」ということなんですが。

 例えば少女マンガなんかは、自己実現というか、恋愛を通して自分を好きになってったりしますよね。なんかモヤシみたいなイケメンがさあ!自分の知らない自分のいいところを見つけ出しちゃったりしてさあ!反吐が出ますね!出ませんか。そうですか。「花より男子」なんかそうじゃないかなあ、と思うんですが、それで主人公が「やっと・・・自分を好きになれそうだよ・・・」とか言うんでしょう。反吐が出ますね!出ませんか。

 阪神大震災の頃に、自己実現の為にボランティアしてる方がいる!ってのが、結構メディアで取り上げられて、批判されていたような記憶もあります。友人に、ダメな女と付き合って、色々世話したりワガママ聞いたりするのが喜びであり、その時の俺は自分が好きだわ、という男もいます。こういうのはダメだぜ、なんて思わないのですが、行為自体は素晴らしいことだし、問題があるとすればそれを口にしてしまうこと位かと思うんですが、だがしかし、だがしかしですよ、「自分が好き」っていうターム自体が自分の行為を正当化する行為になってやしないかなあ、とも思うんです。それを防止するのが、奥ゆかしい、とか、恥ずかしい、というような部分なんだろうと思うんですが。どうなんでしょう。自己肯定みたいなのを目の前で見せられると、反吐が出ますね!出ませんか。そうですか。こんなに言っても出してはくれませんか。

 まあそういう、「自分が好き」で成り立っているんじゃないかと思うんですよ。ネット文化というものは。Facebookとかはもちろんそうですし、2chとかtwitterあたりの叩く文化の辺りは、その裏返しではないかと思うんです。僕なんかは、はっきりと自分の嫌いな部分ってのがあるから、そしてあまり自分のことが好きというわけでもないので、犯罪者とか、叩かれている人とかを見ると「一歩間違えたら彼は俺だったかもしれん」なんて思ってしまって、どうも叩くに叩けん!と思ってしまうんです。要するに、「自分が好きじゃねえと他人を叩けないぜ」なんて思ってしまうんですが、どうでしょうか。よく言われるような議論で、「現実世界の不満をネットで吐き出す」みたいな風に言われますよね。それは、すごく正しいんだろうなあとは思うんですが、その不満ってどこから出てくるかっていうと、まあほら政治とか社会問題とかいろいろ言われてるし、それはそれで正しいんだろうとも思うんですけど、前提の前提の前提くらいに、「自分が好き」ってのはあるのではないでしょうか。そんなこと当たり前だ!ってなるようなら申し訳ない!

 自分の中での問題意識は、なにがどうして自分を好きなのか知りたいんですよね。「彼氏のどこどこが好き」とか言える割に、何故自分を好きなのってなると口ごもるのは誰だってそうなんだと思いますが、自分が自分であるって理由だけで自分を好きなら、それはどうなんだろうなあ・・・。

 

本題に入らないまま、続く!!次回は言葉の持つアレ!夏目漱石と近代日本語!言文一致体と今話題のヘイトスピーチ!多分次回も本題には入れません!!